本名:山崎松尾
生年月日:明治39年9月3日
出生:大阪市西区

 本名:山崎松尾。明治三十三年九月三日、大阪市西区で生まれる。

 三、四歳のころ、母親と上京し、四代目橘家圓蔵の内輪になる。明治三十八年ごろから豊竹豆仮太夫と名乗って、子供義太夫で寄席に出た。同四十二年、落語会に転向し、橘家圓童となる。

 大正四年に小圓蔵と改名、同九年三月橘家圓好で真打ちに昇進した。十九歳の若さである。同十一年二月、四代目圓蔵の死去に伴って、義父の三遊亭圓窓が五代目圓生を襲名したのと同時に圓窓と改名した。さらに同十四年一月、義父の五代目圓生襲名と同時に六代目圓蔵を継ぎ、義父の死後、昭和十六年五月に六代目圓生を襲名した。

   若いころから先輩に本格的な芸の指導を受けて、早くから嘱望されていたが人気の上では低迷が続き圓生を襲名してからも同様だった。終戦の直前に、五代目古今亭志ん生と一緒に満州(現中国東北部)へ行き、現地で終戦にあって苦労した末に、昭和二十二年三月に帰国、寄席に復帰した。

 まもなく「妾馬」の公演で芸を悟ってからは著しい進歩を見せ、昭和三十年代には桂文楽、古今亭志ん生と並んで第一級の落語家と呼ばれる。芸術際賞を初め多くの賞を受け、四十八年三月には宮中で御前口演を行った。四十年から四十七年まで落語協会の会長を務めたが、五十三年六月、真打ちの乱造に反対して落語協会を脱退し、一門で落語三遊協会を結成した。

 五十四年九月三日、七十九歳の誕生日に心筋梗塞で急死した。

 本格的な芸風で滑稽噺、人情噺、音曲噺と幅広く、レパートリーも豊富だった。「寄席育ち」などの著書も多く、レコード、テープもたくさん残している。