本名:並河益義
生年月日:明治25年11月3日 
出生:青森・五所川原

 本名:並河益義。明治二十五年十一月三日、父の勤務先だった青森の五所川原で生まれた。

 三歳の時に東京へ移り、以後ずっと東京で育つ。九歳の時に父が死んだため、奉公に出て、あちこち奉公先を変えた後、明治四十一年に初代桂小南に入門、小莚の名をもらった。大正五年に翁家さん馬(後の八代目桂文治)の門に入って翁家さん生となる。翌年五代目柳亭左楽の門に移って翁家馬之助で真打ちに昇進した。

 文楽を襲名したのは大正九年で、このころすでに若手真打ちとして大いに売れていた。文楽は正しくは六代目だが、末広がりで縁起がいいと、八代目と称した。以来文楽の芸は、寄席では高く評価されていたが、戦後ラジオやホール落語に多く出演するようになって、さらに広く知られ、名声が高まった。

 昭和四十六年八月三十一日、落語研究会で「大仏餅」を公演中に絶句し、途中で降りたのが最後の高座となって、同年十二月十二日、あの世へ旅立ってしまった。七十九歳だった。格調の高い鍛え上げた芸の持ち主で、噺の隅々にまで心を配り、一つのはなしを何度も練りに錬って、これでよいと自分で納得するまでは、高座にかけなかった。得意は「明烏」「船徳」「寝床」などである。