本名:美濃部清
生年月日:昭和3年1月5日 
出生:東京

 本名:美濃部清。昭和三年一月五日、東京に生まれる。

 父は五代目古今亭志ん生。古今亭志ん朝は弟。画家になるつもりが、戦争が激しくなったため果たせず、落語家に方向転換し、昭和十八年に父に入門した。戦時下で落語家になりてが少ないため、むかし家今松の名で、前座をやらずに二つ目からスタートした。しかし前座は年寄りばかりで働かず、その前座の世話までさせられたので、かえって忙しかったという。志ん朝を経て二十二年に志ん橋で真打ちに昇進し、二十四年十月に十代 金原亭馬生を襲名した。

 二十一歳の若さで大きな名前を継いだので、親の七光りだと陰口を言われたが、黙々と努力を続け、次第に独特の芸風を作り上げていった。やがて大きな噺をこなせるようになり、昭和四十年代には、大看板の仲間入りをして先輩たちと並んでホール落語のレギュラーとなり、やわらかいムードで季節感の漂う高座は落語ばかりでなく人情噺でも真価を見せた。明治・大正生まれの戦前派と、戦後入門した人たちの間で貴重な存在だったが、昭和五十七年九月十三日、五十四歳の若さで亡くなったのが惜しまれる。

持ちネタの多い人で、「たがや」「二番煎じ」「菊江の仏壇」「天狗裁き」などのほか、「お富与三郎」などの人情噺も得意にした。